Kaoru Akagawa

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鉄道写真家・ジャーナリストとして
アーティストであると同時に、鉄道写真家・ジャーナリストとして、イギリスと日本の鉄道雑誌や鉄道カレンダーに写真提供・原稿執筆している。

列車が走る街並み、景色、風景には、人が築いてきた社会があり、生活があり、息遣いがあり、人生があり、文化がある。列車の走る姿には、その国・街・村の文化が詰まっている。そうした「文化」を芸術作品として切り取ることにこだわる。

2012年。当時の私は病んでいた。繰り返す稽留流産に悩まされ、ショックで筆が握れず、友人に会う気力もなく空白の時間を過ごしていた。作家で批評家のスーザン・ソンタグが著書『写真論』で主張しているように、写真には撮るだけで心が慰む不思議な効果がある。流産する瞬間の、鶏卵大の塊がぬるりと出てしまう、悲しく嫌な感触。無理解な夫。事情を知らずに価値観を押し付けてくる両親。こうしたことから現実逃避したかった私は、カメラの癒し効果にのめり込んでいった。

1960年代に活躍した写真家ダイアン・アーバスの名言、「写真は行きたいところへ行き、したいことをするための免許」のように、私も忘れたい現実から目を背ける「免罪符」を無意識に欲していたのかもしれない。

カメラを片手にスロヴァキアの首都ブラチスラバの街角に繰り出し、予備知識もないまま路面電車を試しに撮ってみたのが私の最初の鉄道写真だ。

思えば、それはタトラ社製の古い路面電車だった。それまで電車をじっくり観察してみたことがなかったが、石畳の交差点の角からタトラの車体が丸い顔をひょっこり出した途端にその可愛らしい表情に恋をした。写真には、日常生活にありふれているような雑多なものを「美しいもの・文化的に価値あるもの」に昇華する作用がある(ロラン・バルト『明るい部屋 写真についての覚書』による)。ソンタグはそれを、ほかの人なら興味を示さないようなものから美を発見することに固執したシュルレアリストになぞらえている。シュルレアリストは人間の無意識をアートに具現化する。私も、ファインダー越しに見た車両の美しさに驚くとともに、自分の深層心理を見出していたのだろう。

鉄道写真を撮ることは、手練の早業により牛乳の滴の落下を撮影するがごとく、「第三の不意打ち=驚き」に分類される(バルトによる)。もたついている私を尻目にブラチスラバの路面電車はムカデのようにうねうねとお尻を振り、スキール音を立てながらあっという間に視界から消えていった。その間、私は、無心にシャッターを切り続けていた。すれ違う電車に翻弄され、右往左往しているうちにすべてを忘れて、ただただ鉄道の写真を撮っていた。電車が通り過ぎるまでのたった数十秒の無心の時間が孤独と喪失感にむしばまれていた私を救ってくれたのだ。

写真を撮ることと筆で文字を書くことが似ているのも、私の中に鉄道写真がスッと入ってきた理由だろう。「写真」や「カメラ」という言葉を「文字」、「文章」、「筆」などに置き換えて意味が完璧に通じることが多い。例えば、ソンタグは「写真を撮るということは、写真に撮られるものを自分のものにするということである。それは知識と思えるがゆえに力とも思える、世界との一定の関係に自分を置くことを意味する」と述べているが、文字についても同様だ。

墨と筆で文字を書くことは、一筆(ひとふで)、一筆、紙と筆の一期一会の出会いの繰り返しで、やり直しがきかない。鉄道写真も、列車が通る瞬間の天候や太陽の加減、背景の木々や花々の色、車や歩行者とのバランス、列車に驚き飛び立つ鳥までも、シャッターを切る一瞬・一瞬が巻き戻しのできない一期一会で無二の瞬間だ。

今、何かに悩み苦しい時を過ごしている人がいたら、携帯電話で良いので試しに最寄り駅で鉄道の写真を撮ってみて欲しい。人が住む場所には距離と頻度の差こそあれ、鉄道が走っていることが多い。鉄道が頻繁に通る場所では忙殺され、鉄道の本数が少ないところでは今か今かと待つワクワクに時を忘れる。

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